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2015年6月

2015年6月 2日 (火)

すすきと葛布

すすきと葛

2015/06/02

昨日 私の母校である静岡聖光学院の元先生でもあり ススキの研究家である小林克美先生の訪問を受けた。

私がススキの事を知りたいと思い 乞うて来ていただいた。

何故私が、すずきに興味があるのかと言えば、葛布の発酵の室床にススキを利用する。

今まで葛の生態については 非常に興味を持って調べてきたが、ススキについては皆無であった。 しかし ススキがなければ 葛の発酵はできない。稲藁で代用できるが、稲は秋に収穫されるので 次の夏まで保存しなければならない。

ススキを使った室床の制作は その葉に着く枯草菌が発酵を促すことが判ってきた。

枯草菌は 38℃前後で 発酵し セルロース繊維を分解し 養分がなくなると胞子を形成する。

 葛を煮た後、蔓を冷まして、ススキの室床に入れると 人肌ぐらいに温度が上昇し、

発酵をはじめる。発酵で葛の表皮を分解して、溶かしてゆく。表皮を溶かし終えると

胞子の形成をはじめる。 この際、発酵を長くすると 靱皮繊維(葛の繊維)まで

溶かしてしまうので、繊維の強度が弱くなる。

 発酵の状態を見ながら 室床から出すタイミングを計る。

さて、ススキが無いと葛の発酵ができないのだが、そのススキの生態を伺う為に長年ススキの研究をしてきた小林先生にいろいろ伺った。

ススキの原産は東南アジアといわれているという。いつ頃日本に入ってきたか不明であるが既に平安時代には秋の七草として取り上げられているのでかなりふるいようだ。

ホツマ伝え(古代文字で書かれている日本の歴史書、真贋がはっきりしない)には

天照大神が 葛の葉に薄の穂がぶつかって音をたてているのを見て「葛垣打琴」(かだがきうちごと)という日本最初の楽器を作り出したとの言い伝えがある。

さて、草原にひろがるススキの原。大自然の風景といえるが、実は人間が介在しなければ

ススキの原は 2,30年で滅んでしまうと小林先生は言う。

ススキは最初は種子が風に舞って遠くに子孫を増やすが、その後は株の分けつによって

繁殖する。 しかし株が大きくなってゆくにしたがって、枯葉が堆積しそれは容易に分解されないことから 株を覆い、次第に勢力が亡くなってくるという。

 ススキは人間か刈り取るか、野焼きをしなければ あんなススキの原は出現しないのだという。つまり すすきと人間は共存関係であるという驚愕の事実が判明した。

・・・とするなら ススキは人間が農業に使うために持ち込んだ可能性が大きいのではないだろうか。

そもそも亜熱帯、熱帯が原産のススキだが 適応性が強く、今では成長の速度や方法を変えて 北海道などの亜寒帯にまで繁殖している。しかしこれも人間が持ち込んだと考えれば納得がいく。

 最近世界農業遺産に登録された「茶草場農法」は茅場を茶畑の周辺に作り、ススキを

刈り取って茶畑に入れ肥料にする。その茅場を「茶草場」と 静岡大学の稲垣教授が名付けその茶草場が生物多様性の宝庫で有ることを発見する。(詳しくは茶草場農法を検索)

この茶草場農法を視察に来た 元徳島農業大学校の副校長、野田靖之先生は

徳島 吉野川の流域の農業との類似性を 指摘した。徳島でもススキを農業に利用する。

兼ねてから 阿波忌部氏が この静岡に渡来してきた遺跡(神社)を忌部の研究家林先生と一緒に調査をしてきた。 私の周辺でいえば 牧ノ原市の 服部田神社、掛川日坂の

事任八幡宮、森町小国神社 島田掛川にまたがる 粟ヶ岳、 その山頂の阿波波神社

などがそうであるが、 葛布との関係も深い。

 阿波忌部氏は 大麻を普及させたと名高いが、私は大麻だけでなく、農業技術全般を移入してきたとおもっている。その土地にあった物をそこで技術移入したのではないか?

 静岡の遠州地方東部には葛布を伝承させたのではないかと思う。

そして、その際に ススキも持ち込んだのではないだろうか?

葛布発酵の為のススキ  茶草場農法のススキ 徳島吉野川流域の農業

並べてゆくと 古代の人々が 我々の考えて居る以上に 自然のいとなみ、共生関係を把握していたのではないかと 驚く。

ススキの教えを乞うた小林克美先生は私の母校、中高の先生(直接は教わっていないが)、徳島の忌部農法を教えてくださった野田先生は私の大学(香川大学)の先輩にあたる。

どうも 大きな因縁の中に私は泳がされている気がしてきている。

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